Monkeyのダラダラ日記

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【艇王】 植木通彦 【引退】

2007-07-19 | 競艇

嘘だろ!誤報だろ!誰か嘘だと言ってくれ!

以下、スポーツ報知 2007/07/19 17:57 より、全文コピペ

“艇王”植木が引退…
SG10勝、賞金王3度競艇のSG競走で通算10勝を挙げ、3度の賞金王に輝いた植木通彦(39)=福岡=が現役を引退することが19日、分かった。20日の記者会見で正式発表する。植木は1986年にデビュー。93年の総理大臣杯でSG初制覇、笹川賞2勝、賞金王決定戦も3度優勝するなど活躍し、2002年には競艇史上最高の2億8418万4000円を獲得。04年には史上2人目の生涯賞金20億円を突破した。通算成績は4500回出走し1562勝、獲得賞金は22億6184万2369円。

植木通彦(うえき・みちひこ)1968年4月26日、福岡・北九州市生まれ。39歳。小倉商を中退後、86年11月に59期生としてデビュー。初勝利はデビュー1か月後の芦屋。初優勝は3年8か月後の唐津新鋭リーグ戦。SGはデビュー5年目、91年尼崎の全日本選手権。優勝は93年戸田総理杯をはじめ10V(歴代2位タイ・8冠制覇にMB記念を残す)。
引退の理由は何なのだろう?まだ39歳の若さで…。最近の不調さと帰郷病は何かの病気だったのだろうか?なんだか混乱していて旨くかけない。MBを獲ればグランドスラム(全SG制覇)だったのに。せめて、来年、狙うところまでは頑張ってほしかった。今日は無理だけど、後日、キチントしたエントリーを書きます。
平和島総理大臣杯優勝戦でのフライングに対しての「バカヤロー!」が最後の言葉になろうとは。ナンチャッテ復帰ありです、オレの中では。他の誰が許さなくても、オレは許します。

追加 (2007/07/20)

“艇王”植木が突然の引退-。 デイリースポーツ
競艇で“艇王”の名で親しまれた植木通彦(39)=福岡・59期=が19日、全国モーターボート競走会連合会を通じて引退を発表した。引退の理由などは20日、正式に会見を行う予定。SG優勝10回、生涯獲得賞金約22億円。業界の常識を数々覆してきた“艇王”が、競艇選手としては異例の早さ、39歳でヘルメットを脱ぐ。

競艇界に衝撃が走った。一流選手、それも業界のトップに君臨する39歳。65歳の現役選手がいる競艇界では異例の早さともいえる引退発表だ。

競艇を知らない人でも「植木通彦」という名前は聞いたことがあるはず。最高峰のレース・SGを10回制覇(歴代1位は野中和夫の17回。植木は彦坂郁雄と並ぶ2位タイ)、生涯獲得賞金は歴代3位の約22億円を獲得した(1位は今村豊、2位は松井繁)。18日まで鳴門競艇場で出走していたが突然の発表。だが、ここに至るまでの布石はあった。

3月に平和島競艇場で行われた「総理大臣杯」の優勝戦で痛恨のフライング失格。この失格によって売り上げの84%に当たる約17億円が返還された。常に「業界を引っ張る人間として、競艇界を盛り上げていきたい」と願う植木にとって、この返還は精神的なダメージとなった。優勝以外で初めて見せる悔し涙でもあった。

また、現在の規定ではSGの優勝戦でフライングを切ると、向こう1年間、最高峰レースのSGに出場できないルールになっている。1着賞金4000万円のレースに出場できないとなると、トップレーサーとしては当然モチベーションも下がる。

ケガにも泣かされた。1988(昭和63)年1月、桐生競艇場で顔面をはじめ、75針を縫う大ケガで入院。ケガのたびに不死鳥のごとく復活したが、ここ最近は体中に爆弾を抱えた状態。シリーズの途中で欠場することも多かった。

“モンキーターン”という独特な乗艇姿勢を完成させて、競艇界の常識を覆してきた。今日20日、永年功労者祝賀会が行われ、植木自身もデビュー20周年の節目を迎える。そのとき“艇王”は静かにヘルメットを脱ぐ。

競艇のスーパースター植木 突然引退
総理大臣杯優勝戦FがラストSG  中日スポーツ
競艇の植木通彦(39)=福岡=が引退を決意していることが19日、分かった。植木は、20年9カ月の選手生活の間に、最高峰のSGレースで10回優勝。『艇王』として君臨してきた。引退の理由については、20日午後、東京都内で記者会見して発表する。

植木は1986年秋に18歳でデビュー。20歳のとき、桐生競艇でレース中に顔を75針縫う大けがをしたが、半年の入院生活のあと、その桐生で水面に復帰。93年3月、戸田競艇の総理大臣杯でSGを初制覇し、その年から10年連続で暮れの賞金王決定戦(11月末現在で獲得賞金ベスト12が出場)を走り続けるなど、トップレーサーとして活躍してきた。
旋回時にボートの上に立ち上がる『モンキーターン』の先駆者として知られ、その華麗なターンは『不死鳥の舞』と呼ばれた。

賞金王決定戦では3回優勝し、これまでの獲得賞金総額は22億6184万円(歴代2位)にのぼるが、賞金王決定戦の連続出場記録(93年~02年の10回)が途切れたあとは好不調の波が激しくなっていた。ことし3月、総理大臣杯(平和島)で優勝戦まで勝ち上がったが、1番人気を背負いながら痛恨のフライング。来春までのSGレースの出場権を失っていた。

引退の理由は、記者会見で明らかにする、としているが、常々「艇王と呼ばれなくなったら引退を考えます」と語っていて、SGの出場権喪失が引退の引き金になった、とみられている。

▼植木通彦(うえき・みちひこ)1968(昭和43)年4月26日生まれ、39歳。福岡県北九州市出身。165センチ、51キロ、血液型O。連合会養成59期生で86年デビュー。通算4500走1562勝で勝率7・58、生涯獲得賞金22億6184万2369円。優勝74回でSGは10回、G1は23回制し「全冠」にはMB記念を残すのみだった。

歴代1位記録は年間最多獲得賞金(02年2億8418万4000円)、5年連続SG優勝(93~97年)など。夫人と2男1女の5人家族。

植木電撃引退、39歳早過ぎるよ艇王… 日刊スポーツ
艇王が電撃引退する。競艇界の第一人者でSG優勝10回、生涯獲得賞金が22億円を超える植木通彦(39=福岡)が20日、記者会見を行い正式発表する。86年にデビュー。89年にはレース中の事故で全治5カ月、顔を75針縫う大けがをしたが、見事に復活。96年には公営競技では初の賞金2億円を突破するなど数々の記録を更新した。艇王と呼ばれ競艇ファンの信頼も厚かった。

植木は前日の18日まで鳴門競艇場でレースに出場。15~18日までの4日間が、最後のシリーズとなった。一緒に出場していた植木の一番弟子・桂林寛(36=福岡)でさえ、そのシリーズで初めて引退を聞かされたという。植木は「選手としては20年でひと区切り。今節でやめるよ」と語ったという。

86年にデビューした植木は、当時から素質を高く評価されていた。92年にG1初優勝したころから、モンキーターンを使いだす。その高速旋回は競艇に革命をもたらし、一気にスピード時代に突入させた。植木はモンキーターンの申し子として、艇王への道を歩んでいく。96年には公営競技史上初となる獲得賞金2億円を突破。しかし、その道は決して平たんなものではなかった。

復活、復活のレーサー人生だった。1度目は89年の桐生でのレース中の事故で、顔面を75針縫う大けが。「レースへの怖さを乗り越えるために」と、自ら志願してけがをした桐生での復帰を決めた。これが、植木伝説の始まりになった。けがから復帰した4年目の92年、地元福岡でG1を初制覇。翌93年にSG初優勝を飾ると、97年まで5年連続でSGを制覇し、一気にトップの座にまで上り詰めた。

20代は文句なしの成績を残したが、98年からはタイトルに手が届かず、30代の初めのころには限界説が流れていた時もあった。01年に、唐津で4年ぶりにSGグランドチャンピオン決定戦を手にし、2度目の復活を果たした。ヒーローインタビューでは「もうSGは勝てないかと思っていた」と大粒の涙を流した。3度目は05年だった。03、04年は不振で10年連続で出場を続けていた賞金王決定戦の出場を逃した。だが、常滑の笹川賞で2年半ぶり、通算10回目のSG優勝を決めた。野中和夫の17回に次ぐ、彦坂郁雄(引退)に並び歴代2位タイの数字だ。8大競走のうち、あとMB記念を制すれば5人目のグランドスラム達成だったが、これが最後のSG優勝となった。

今年3月の平和島の総理大臣杯の優勝戦では、1番人気に推されながらフライングを切り、優勝戦の売り上げの9割以上となる約17億4000万円を返還。ペナルティーとして、1年間のSG出場権利を失った。選考期間を考えれば実質的にはSG復帰にはもっと時間がかかる。肩などのケガも尾を引き、完全な体調でレースに臨むことが難しくなったことも、引退の引き金になったかもしれない。植木は日ごろ「トップを守れなくなった時が引退の時」と語っていた。最後の出走となった18日の鳴門10R出場の直前までエンジンの整備を続け、「オレも最後の最後まで仕事をするもんやな」と笑っていたというのが、いかにも植木らしい最後と言える。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-10-04 17:32:54
32歳ですが、3年以内でSG優勝する自信があります。どうかよろしくお願いいたします。
スタート感もあるし、度胸もあります。

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